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決めたこと
  インドに行くことを今日具体的な内容をもって決めた。
WAA前期の授業で、何枚ものスライドが流れて映し出されるとき、気持ちが一気に動いた。
行きたいという気持ち。
それともう一つ、分かっていないのに、分かっているかのように勘違いしていた自分がかなり悔しかったから。

しばらくして、色々な迷いがあった。
半年前のこと。
この個人的な思いだけじゃ、今年は覆い切れない出来事があったということ。
少し背伸びをして可能なことを実行できる環境が、自分にあることへの後ろめたさが無かったわけでは決してない。でも、どう理由を探せたとしても、納得はできないとも思う。何故ならその理由はどこまでも個人的な理由でしかないのだから。誰かの為に、今自分の理由を作れるような人間ではない。

迷いながら過ごす時間を費やしている事が、一番良くないことなんだ。
気持ちが揺らいで、色々な事が疎かになるんだったら、きちんと気持ちを一つに向けて、日々をきちんと充実させること。
半年前のことをきちんと抱きながら、自分の日々を全うすることをもって、出来ることをこれからもしていきたい。

今どうしてこんなに気持ちが出たり引っ込んだりしているのかというのの、引っ込んでる部分は、準備をすれば和らいでいく。
反対の、出ているところは、次を決めるきっかけをつくりたいという気持ち。
この先の自分を支えるものが少しでも増えれば良いと願う。
確かめたいことがあるのだから、それをしてから次に進みたい。

あとは出発まで、気持ちは向かうのみ。
帰ってきたときに、きちんとした気持ちで向き合うために。
想像の旅へ























 “起こらなかった世界についての物語”
は、これまでに想像はされたけれど創造されなかった多くの建築について、またその想像した本人について、1枚のドローイングを頼りに小さな物語を紡ぎ集めた本。
著者ご本人からの紹介で読み始めて、すぐに、これは好きなものを少しずつ切り崩すように味わう食べ物のように、大切に読みたいと思って、この夏じゅうをかけて丁寧に向き合った本。
この本には、大切にしておきたい気持ちが言葉に宿っていて、そしてそれがきちんと静かに揃えてあって、なんだか「ああ、良かったな」って思わずにはいられない魅力が詰まっている。

現実の問題によって建てられなかったものもあれば、はじめから建てることを前提にしないものもある。だけどどちらも等しくこうして語り継がれる魅力があるということは、そこにはっきりとした“想像”があって、目には見えないけれどくっきりと縁取られた形を感じることが出来るから。
ものがつくられるということには、本当にたくさんの物語があるはずなのに、何故私たちはその想像をおろそかにしてしまい、出来上がったものの生産性や経済性に多くの時間と視点を傾けなければならなくなるのだろうか。
身の回りを、そしてまちを、もっと素敵にしたいという志が、私たちを建築に向かわせたのではないだろうか。

現実の葛藤が数多くあることを十分に心得ているにも関わらず、それでもこうした本を創ることに突き進んでいった著者の三浦さんに、私は本を介してもまた多くを学び取っている。
話しているとき、時々「これがまちに(僕らに)とって良いかどうか」というセンテンスが表れていて、答えを注意深く探るためにいつもきちんと向き合っているという姿勢を垣間見る。

たくさんの物語の中から自分が1つだけ選ぶとしたら、マッシモ・スコラーリのドローイングにする。
どの世界にも無いような、でもとっても気持ちが良くて、美しくて、透き通るような風景の絵が1枚そこにある。
山のような、海のような、でも丘のような、そして鳥や紙飛行機のような、目の前の美しいグラデーションを持つ色に包まれていて、どこまでもどこまでも静かな風景。
ものの裏の裏まで美しいことを、いつかしたいっていう気持ちが、ぐっと上のほうに押し上げられて、少しだけ苦しくなるような感覚。
この目でそして、この絵をきちんと確かめられたら、どんなに素晴らしいだろうと、その時の私とその後の私を想像する。























夏休み
 8月12日の台風は、関西に向かう私とすれ違いに北東へ進んでいく。
刻々と変化する空模様にはらはら、それと共に久しぶりの遠出が高揚感を誘うし、気持ちは一日波を伺う船乗りの気分。
一日だけの夏休みは、滋賀県の佐川美術館ミホ・ミュージアムと、そしてゆとりが出来れば、京都の恵文社に行くこと。旅の目的はこの3つ。

 二つの美術館は与条件を調べていたからその成り立ちや手法は心得ていたけれど、やっぱりきちんとその場所に行って確かめてみると、そこでしか分からない新しい発見がある。
特にその中でも心に残るのが、美術館だからそこに見せようとするものがあって、それをどうやって見せるのかということに対して、それぞれが違う方向から考えた結果がきちんと表れていたことだった。
それは、それぞれの美術館が持つコレクションがどちらも日本・アジアの古美術を中心にしていることからその違いがはっきり感じられたんだと思う。

佐川美術館は、常設される様々な茶器を、それがその展示室の内部を作り出したかのように展示されているように感じられたのは、床が立ち上がったところにものがたまたま置かれていたり、壁から突き出たところにものが置かれていたり、建築を構成するものの延長上に何かそれぞれが配置されているような気配を漂わせていたからだと思う。それはとてもあからさまな様子ではないけれど、ものを
配置するということを考えたとき、その内部を計画する時には、絶対に何を置くのかということが具体的に知り得ていて、それがとても深く関係しているということが間違いなく感じられる場所だった。

ミホ・ミュージアムはそれに対して、アジアの美術の特徴を丁寧に捉えていて、その特徴をどうやって最大限に見せるのかということを、建物全体で考えていたんだと思う。
それはどういうことかといえば、アジアの美術は西洋のそれと比べて小さなものが多くて、その小さな美術を愛でるように見るということが、展示室と共用部のスケールの対比や、小さなものを見るときの人間の仕草をそのままいざなうような場所があることに私は感じ取ることが出来たんだと思う。
I・Mペイがある雑誌のインタビューに答えたように、建築を俯瞰から捉えることではなくて、もっとそこにある文化や人間性から捉えることに可能性があるはずだという信念を、この場所で垣間見たように思えた。

異なる様相に様々に感じ入るところがあっても、やっぱり共通するのは、思考は結果に残るということの責任であって、説得力であるということ。


 京都に戻って、新幹線の時刻までに余裕があったのが嬉しくて、大急ぎで恵文社へ。
二つの“見る”から解放させられて、新しいものの出会いを“探す”ということに没頭する。
一気に5冊も本を買う気にさせられるのは、今だここしか無い。




ある地点
 
 書店で久しぶりに手に取った新建築、それはたまたま集合住宅特集で、大半はワンルームタイプが10戸前後という規模だった。
1つ1つ割とゆったりページをめくりながらもふと気づいたのは、自分がその中で最も注視する箇所が、なんと文章である設計趣旨であり、そして次にPLANである事だった。これに気づかされた時、私は予定外にひどく困惑させられて、この、建築というものについていくことは、一体どういうことなのだろうと、不意にストップをかけられたような気持ちにさせられた。

この感情が起こったことには、きっと次のような訳がある。
それは、ジャンルはどうあれ一つの雑誌という視点から捉えると、何故大半を占める写真(それも、ある事柄の結果だということが明らかな被写体だということ)からよりも、結局は文字によってその理解を期待しているという矛盾が起きたということだ。
文章を読むことで、私はほぼ初めてその建築が発生させる、内部のイメージを感じ取ることが出来て、とてもわくわくした気持ちになる。だから次の作品からも、同じ回路で以って建築を理解するという期待をかけてしまうんだろう。
つまり、私たちが今建築を理解しようとするときには、建築の“外から”のこととか、あとは切れ切れの部分である“カット”ではなくて、建築の“中に起きること”と、それに伴う一つの生活の“流れ”を感じることが重要になっているのであった。
それを、建築のコードで置き換えたとき、今私たちの関心は、外部や部分を敷き詰める「素材」ではなくて、あるストーリーのための「ロジック」にある。
ものが単純にどう見えるのかということよりも、ものが何を人に誘発するのかという段階で考えなければならない時代を改めて強く認識させられた。

そしてもう一つの訳それは、そこに書かれたストーリーのおおよそが、建築の内部と関係性を持つ人々に限られているという印象があるということ。
社会のために一役買おうという気持ちよりも、自分の把握できる範囲の、身の回りの物事が豊かだということの方に価値が置かれる傾向の時代だからこそ、それはきわめて自然な思考の流れと受け取れば済むのだけれど、私の中の、もやもやした気分は一体なんだろう。
ものが単純に美しいということの説得力を、自分がまだまだ期待しているからか?
そうだとも言えるし、しかしそれだけではないようにも思える。

大きな大きな曖昧が、久しぶりに手に取った新建築によって、まるで何かがじわじわと染み込むように、心に残っている。きっとしばらくそうだろうし、ずっとそうでなければいけないんだろう。